2021-03-12 23:51:53
『クオリティランド』(森内薫訳/河出書房新社/2019)で日本に紹介されているマルク=ウヴェ・クリングのDie Känguru-Chronikenを読んでみた。隣に引越してきたカンガルーに振り回される主人公の毎日が軽妙で笑いに溢れた文章で綴られる。言葉を話すカンガルーが出てくるが、お伽話ふうのほのぼのとした話ではなく、カンガルーは共産主義者で、語り手と探偵事務所を設立したり、精神科医を狂わせたり、騒動を起こしたりすることもあれば何となくぼんやりした話で終わることもある。すべて現在形で記されていて、その書き方自体もカンガルーに莫迦にされたりすることもあり、そうすると「過去形だって使える」とか「現在完了だって!」とか、次々に時制を見せていってくれるところなどは日本語に訳すとなると難しいだろうなと思う。
現在までに4巻が刊行されているようである。第一巻が面白かったので、第二巻を読もうとしたら難しくて読めなかった。どうして第一巻が読めたのかはよく判らない。
うまくその雰囲気を出せているかどうか判らないが冒頭部分はこんな感じ。
〈向かいのカンガルー〉
ピンポーン、呼び鈴が鳴る。僕がドアまで行って、開けると、カンガルーが目の前に立っている。瞬きをして下を見ると階下へ下りる階段が見える。それから、上へ昇る階段を。正面を見る。カンガルーはまだそこにいる。
「こんにちは」カンガルーがいう。
首を動かさずに、もう一度、左を見て、右を見る。時計を見る。結局、カンガルーを見る。
「こんにちは」ぼくはいう。
「向かいに引越してきたばかりなんだけど、パンケーキを焼こうと思ったら、卵を買うのを忘れていることに気がついて……」
ぼくは頷いてキッチンへ行って、卵を二つ持って戻って来る。
「どうもありがとう」カンガルーはそういって、卵を袋の中に放り込む。
ぼくが頷くと、カンガルーは向かいの部屋のドアの向こうに消える。ぼくは左手の人差し指で鼻の頭を何度か擦る――そして、ドアを閉めた。
すぐにまだ呼び鈴が鳴る。瞬時にドアを開ける。ぼくはまだドアの前に立っていたからだ。
「あっ!」カンガルーが驚いたようにいう。「ずいぶん、速く鳴るんだ。ええと……たった今、気がついたのだけど、塩も持っていなくて……」
ぼくは頷いてキッチンへ行って、塩入れを持って戻って来る。
「どうもありがとう! もしかして、牛乳と小麦粉も少し……」
ぼくは頷いてキッチンへ行く。カンガルーは受け取って、礼をいって去る。二分後にまた呼び鈴が鳴る。ぼくはドアを開け、カンガルーにフライパンを調理油を差し出す。
「ありがとう」カンガルーがいう。「冴えているね。もしかして、泡立て器か攪拌器を持っていたら……」
ぼくは頷いて、キッチンへ。
「それから、もしかしてかき混ぜるのに使えるボールもあったら」カンガルーが後ろからぼくに呼びかける。
十分後、また呼び鈴が鳴る。
「レンジが使えなくて……」カンガルーがいう。
ぼくは頷いて、中へ入れてやる。
「そこのすぐ右だから」ぼくはいう。
カンガルーはキッチンに入って、ぼくはその後ろに続く。でも、あまりにも不器用なので、ぼくが代わる。
「中に入れるものがなにかあったら……野菜とか挽肉とか?」カンガルーがいう。
「挽肉だったら、まず買い物に行かないと」ぼくがいう。
「大丈夫。時間はあるから。生地も少し休ませてやった方がいいし」とカンガルー。
ぼくは鍵掛けから鍵を取る。
「でも、リドル[ドイツのディスカウントスーパーマーケット]はやめておいて」カンガルーの声が後ろから聞こえる。「あそこは労働条件が悪くて……」
ぼくは肉屋へ行って、挽肉を買う。部屋に戻るとき、隣に住む女の人に会ってしまう。
「新しく来た人に会った?」と訊かれる。
ぼくは頷く。
「この辺の出身じゃないでしょう?」といって、小さなヒトラー髭をひっかく。もちろん、彼女にほんものの髭が生えているわけではない。産毛というべきものだ。ヒトラー産毛だ。
「すぐに、トルコからひと家族まるまる押しかけて来るんじゃない?」
ぼくはもう一度よくよく彼女を眺めてみる。うーん、やはり髭じゃないだろうか。
「何見てんの?」彼女が訊く。
「たぶん、オーストラリアから来たんだと思いますよ」ぼくはいう。
「ふうん、オーストラリア? そうかも。でも、どこから来たかはどうでもいいでしょうよ。どっちにしても、こういうイスラム教徒にはいらいらすんのよ」