私が子供の頃、小学校の授業で自分の名前の由来(親がどのような気持ちや願いを込めて名付けたか)を調べるというのがあったが、今の小学校でもあるようで、私の娘も学校の宿題だからと名前の由来を訊ねてきた。夜だったので、明日の朝書いておいてやると云って、今朝書き始めた。山尾悠子の文章が如何に美しいかということ(娘は悠子という名前である)を書いているうちについ力が入ってしまい、さらに「名前の意味」と娘が訊ねたことを思い出しこれは「悠」という字にどのような意味があってそれに関連づけて名付けたときの気持ちを記さねばならないのかという疑問も生まれ「由来篇」と「意味篇」の二通りを記しておいた方がよかろうという気持ちになり、ふと気がつくとA4の紙にいっぱいになってしまった。少々長いのではないかと心配になったが、とりあえず印刷して娘に渡した。夕方仕事から帰ってからあれで良かったかと訊ねると、「あれ、書くところ三行しかないんだ」と云われる。あんなに書くんじゃなかった。
今日から再びピーター・S・ビーグルのTAMSINを持って出勤。この本なかなか進まない。まだ150ページである。
明日は29日だが今年は400年に一度の閏年なんだそうで、コンピュータが誤作動する可能性があるらしい。私のMacintoshのControl Strip(コントロール・バー)に入れてあるCalendar CSM 1.2bでは、今月は28日までしか表示されていない。明日はどうなるのだろうか(これを書いているのは29日である。このカレンダーは今日の日付は29日と表示されているのに一ヶ月のカレンダー表示画面では28日までしか存在しないという状態になっている。もしかしたら、このカレンダーはそもそも閏年に対応していないだけのことなのかも知れない)。
ホームページのカウンターが40000を越えたようである。書店リンクと日記しかないページなのに利用したり読んだりしてくださる方がそれなりにいらっしゃるということで、今後も特に何か大きな変化もなく続いていくと思うので、今後ともどうぞよろしくおねがいします(実は「ら抜き言葉撲滅委員会」復活計画とか、Macintosh欧州人化ページの企画だとかはないわけではないのだが、恐らく心の中で暖めながらそのまま消えていくでしょう)。
テリー・プラチェットの『異端審問』を読み終える。面白い。このシリーズは翻訳ファンタジイを出している出版社がきちんと出せばいいのにと思う。まあ、いろいろ事情はあるのだろうが(その辺の事情というのは私は知らないので何とも云えない)。
昼間、強烈な眠気に襲われるが我慢して昼寝をせず、夜は七時半に寝る。私は小学生の娘よりもはやく寝るのである。
ロバート・アスプリン『魔物をたずねて超次元!』を読み終える。この巻は面白かった。いつもの脇役たちが殆ど出て来ない話で、一人で異次元へ行って見知らぬ街で仲間であり嘗ての師匠でもあるオゥズを探す顛末が語られる。魔法による騒動もあまりない。他の巻に比べると比較的落ち着いていて地味な話、だと私は思う。一人異星へ赴いて敵だとか攫われた仲間を探すSFにちょっと似ている。そういう話が大好きなのである、何故か。<マジカルランド>がいつもこういう話だったらいいのにと思うのだが、そうだったら売り上げ急降下だろう。
SFマガジン四月号が届く。ぱらぱらと捲っていたらSFスキャナーの執筆者の名前が目次と該当ページで異っていることに気がついた。何故だろう。
SFマガジン五月号のためのファンタジイ評を書く。アスプリンを褒めようと思って書き始めたのだが、ウィリアム・モリス『世界のはての泉 上・下』、『書物の王国 15 奇跡』、マーヴィン・ピーク『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』といった古い作品に興奮してしまってあっという間に制限枚数に達してしまったのでロバート・アスプリンとフランチェスカ・リア・ブロックに関してあまり書けなかった。まあいいやと思って送信。
書店リンク集のリンクをざっと調べてみると繋がらなくなっていたりURLが変更になっていたり名前が変わっていたりするものが結構あったので修正作業を行なう。この世界、変化が速いから大変だ。そういえばBOL Japanがもうすぐできるとhttp://www.bol.com/index.htmlに載っていた。どんな店になるのだろう。『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』を読み終える。こんな楽しい本をピークが書いていたとは驚かずにはいられない。
仕事から帰ってくると早川書房からロバート・アスプリン『魔物をたずねて超次元!』(矢口悟訳/600円/ハヤカワ文庫FT271)が届いていた。早速読み始める。すらすら読めるので今日中に終わるのではないかとも思ったが、半分くらいまで進んだところで寝る時間になったので寝る(何だか子供みたいだ)。
Eudoraのアップデータ版がやっと出たので、アスプリンを読みながらダウンロード。広告を消すために登録番号を入力する画面がなかなか見つからず、ちょっと戸惑う。何が良くなったのかよく解らない。もうそろそろ英語版を使うのはやめようかとも思う。数年前までは日本語版が出るのが随分遅かったりしたものだが、この頃は同時発売が多いので殆ど意味がない訳だ。ただ、日本語版の方が価格が高い場合は相変わらず多いようだが。
先月13日に註文した本がWeinberg Booksから届く。
S. T. Joshi SIXTY YEARS OF ARKHAM HOUSE (Arkham House/$24.95)
Fantasy and Science Fiction, Feb 2000 ($3.50)
Fantasy and Science Fiction, Jan 2000 ($3.50)
Weird Tales #318 (4.95)
の四冊。Interzone #149 ($5.95)は売り切れであった。アーカムハウスの本はいいのだが、他の雑誌三冊はなぜ買ったのか自分でもさっぱり解らない。
『書物の王国 15 奇跡』を読み終える。傑作揃いのアンソロジーである。素晴らしい。特にヴァーノン・リーがよい。それにしても、もっとゆっくり読みたかった。直ちに、マーヴィン・ピーク『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』を読み始めるが、読み終える前に寝る時間になってしまった。
310円で落札したEthernet Cardが届く。送料と代引き手数料を含めて1050円であった。巨大なので本当にMacintoshで使えるのだろうかと思ったが、Apple Computerの文字があるので使えるのだろう。実に古びたEthernet Cardである。10Base5 (AIU)の接続口しかついていないので我が家では使えない。職場に持っていって使ってみようか。全く無駄づかい以外の何物でもない。
ふと思い出したが昨日の朝のNHKニュースで所謂ら抜き言葉を使われて甚だ不愉快であった。幸いなことにアナウンサーではなく、天気予報の男であったが。「紅白歌合戦出場の喜びを語るウルフルズは「紅白に出れるなんて」とデレルを連発していたので、私は「まったくもう。デレデレ、言うな!」とTVの前で憤然となった」と書いていたのは中野翠(東京人1997年3月号)であるが、全く朝からデレデレ云われると不愉快極まりないのでああいう奴はニュースには出さないようにしてもらいたい。それからアナウンサー以外の者をニュースで喋らせるのはやめて欲しいものだ。各地方の行事やほのぼのとした事件を二分くらいで紹介する場面や外国の政府や国会あるいは国際会議が行われている建物も前から中継で状況を紹介する場面などで登場する声だ。文節ごとに声をちょっと上げる変な話し方が多い。気持ち悪いので話し方の教育を受けたアナウンサーに喋らせてもらいたいのである。
ウィリアム・モリス『世界のはての泉 下』を読み終える。百年前に既に時代遅れであったこの物語を二十一世紀になろうかという時代に読むことに何とも言えない喜びを感じてしまう。
次は『書物の王国 15 奇跡』を読むことにしよう。
ウィリアム・モリス『世界のはての泉 下』はなかなか捗らない。本当はこういう古いファンタジイはゆっくり読みたいのだが、そうも云っていられないのが残念。
NuBus Ethernet Cardが届く。無駄づかいだと全身で叫んでいるような姿である。しかし、この後もっと無駄な買い物であるEthernet Cardがもう一つ届く筈なのだ。
朝六時まで熟睡する。目覚めると微かな頭痛が。やれやれ。今日は娘が県民マラソン大会に出るというので大濠公園というところまで出かける。マラソン大会とはいっても42.195km走る訳ではなく。小学校二年生なので1km走るだけ。五分ほどで終わってしまう。その後、図書館に寄ってから帰宅。図書館ではちょっと面白そうな本を見つける。書店で面白そうな本を見つけて図書館で借りて読むと家計に大きく貢献する訳だが、私の場合、本を所有したいという欲望が強いので、図書館で面白そうな本を見つけて書店で買ってしまう。困ったものである。
帰ってくるとやはり頭痛が気になるので風呂に入ってから昼寝。一時間ほど寝るつもりが、四時間くらい眠ってしまう。夕方五時過ぎに起きて二度目の風呂。頭痛はほぼ消えた。やっと安心して本が読める。ということで、ウィリアム・モリス『世界のはての泉 上』を読み終える。この本の登場人物たちは美しい人を見ると忽ち恋におちてしまう人たちばかりである。嘘っぽいといえば嘘っぽいが、何だかどうでもいい悩みをうじうじと綴られるよりも気分がいい。早速、下巻を読まねば。
SFマガジン編集長から電子メールが届き、ファンタジイ総括1999年の原稿を400字ほど縮めて欲しいということだったので、原稿を修正して送信する。読み返すたびに私の文章には変なところが見つかる。根本的に日本語は下手なのかも知れない。
図書館流通センターから本が届く。
ロバート・ヘレンガ『フィレンツェ幻書行』、フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』、『書物の王国 15 奇跡』、マーヴィン・ピーク『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』の四冊。『書物の王国 15 奇跡』にはヴァーノン・リーの「七短剣の聖女」が入っているではないか。素敵なアンソロジーである。はやく読みたい。
yahooのオークションでNuBus Ethernet Cardを落札してしまった。3900円だった。我が家で使う予定はなく、職場で使えそうだなと思っていたものなので、これは無駄な買い物と云えるかも知れない。でも、自分に有利なネットワーク環境を作ろうという企みだからまあいいだろう。
これまで何度かyahooのオークションでは値をつけてみたことがあるのだが、いつも価格がどうみても安くないところにまで達してしまい、私は手を引いていた。たまには落札できることもあると解ってこれから癖にならなければいいのだが。
ビーグルはまだ半分なのだが、今日から日本語週間なのでウィリアム・モリス『世界のはての泉 上』を読み始める。古臭い物語展開が心地よい。ただ、漢字が極めて少ない文章なので読む速度は遅くなってしまう。今の若い読者にも受け入れられるように漢字を減らして読みやすくしたと後書きに書いてあるが、私は漢字を減らせば必ずしも読みやすくなるとは思えない。私の場合、平仮名よりも漢字の方が速く意味を読み取れるのだが、漢字は表意文字だから誰でもそうではないのか?
書物復権というページについて。出版社8社(岩波書店、紀伊國屋書店、勁草書房、東京大学出版会、 白水社、法政大学出版局、みすず書房、未來社)と株式会社ブッキングが協力して品切れ・絶版になっていた本をインターネット上で復刊希望を募り、その結果を忘れられていた書物の復刊に結びつけようという試みである。この<書物復権>という活動は1997年から行われていたが、インターネットを利用するのはこれが初めてである。今のところ復刊候補に挙がっている本には欲しいものがない。リスト外の要望を出そうかどうしようか迷っているところである。
今日は六時間半くらい新幹線に乗ることになるので本を沢山持ってでかけなければと思ったが、英語の本が一冊あれば充分であろうと気付き、ピーター・S・ビーグルのTAMSINを手に持って出発。ただ、それだけでは寂しいのでテリー・プラチェットの『異端審問』(久賀宣人訳)も160ページまで持っていく。160ページまでと中途半端なのは、これはまだ本にはなっておらず、解説を書くことになったので原稿段階のものが手元にあるからだ。全部持っていくと鞄が膨らんでしまうので、160ページまでとした。
新大阪までは<のぞみ>に乗れば二時間二〇分ほどで着くのだが、今回の出張費では往復<のぞみ>に乗るには足りないと判明。自由席往復割引券を買ってようやく大阪市内の交通費と駅弁代が出るといった有り様である。こんなつまらない出張に自分の金を出すのは嫌なので、<のぞみ>には乗らないことにした。
新幹線に乗るのは五年ぶりくらいだろうか。早速、テリー・プラチェットを読み始めようと思ったが、いきなり睡魔に襲われて一時間ほど眠ってしまう。後半は目も覚めて『異端審問』を160ページまで読み終える。いよいよ面白くなってきたところで、160ページが終わってしまい全部持ってくればよかったと後悔する。
千里ライフサイエンスセンタービルで文部省科学研究費補助金基盤研究「歯周病の免疫療法に関する研究」班会議に出席。自分の担当分で十分ほど話す。早く帰りたいのに終了が遅れ、予定より一時間遅い<ひかり>で博多に戻る。ピーター・S・ビーグルを読むがなかなか捗らずやっと半分をこえたところで終着駅に着いてしまった。十時頃帰宅。私にとっては真夜中である。食事をして風呂に入って寝る。
ついうっかり一時半に起きてしまう。という訳で一日中眠い。明日は日帰りで大阪へ出張するので、新幹線の中で何を読もうか考え始めた時、大阪までどれくらい時間がかかるかすっかり忘れていることに気付き、時刻表で確認してみたところ三時間もかかることを知って愕然とする。明日は六時間も新幹線に乗らねばならないということだ。まあ、それだけ本が読めるということだ。
東京創元社からロバート・チャールズ・ウィルスン『時に架ける橋』が届く。表紙が結構綺麗で安心した。穏やかすぎるかも知れないが。少しは売れて欲しいものだ。
SFマガジンでロバート・チャールズ・ウィルスンのBIOSを紹介するSF Scannerの原稿を書いて送信。いつ掲載されるかは判らない。
朝、ちょっと仕事に行ってからベレーネ・ウーリ『金曜日のアンナ』を手に取ってみたら、つい最後まで読んでしまった。言語というものを考えてみるきっかけを若い読者に与えるために、少年が主人公の物語仕立てになっている変な本。私は物語を何かの道具にするのは嫌いなのだ。でも、面白かった。ただ、誰にとっても面白かというと些か疑問である。私はたまたまノルウェー語に関心があったから面白かったが、そうでない日本人にとっては、例文が殆どノルウェー語の本で言葉に関心を持てと云われても読みづらいだろう。最近ノルウェーでは、Rの音が舌先を震わせる音から口蓋垂を震わせる音に変わってきているということなど、ノルウェー語の変化についての記述が興味深かった。ドイツ語では疾うに終わっている変化だと思うが、それが今ノルウェーで起こっているということか。次に手に取った柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』も読んでしまった。うーむ、翻訳は難しい。ちょっと疲れたので、小林信彦『現代〈死語〉ノート2 1977〜1999』をぱらぱらと捲ってみる。ついほんの昨日のことまで入っているので、死語というには少々生々しい言葉も多い。少しだけ眺めるつもりが殆ど読んでしまった。今日は、SFマガジンの原稿(SF Scannerでロバート・チャールズ・ウィルスンのBIOSを紹介する)を書く筈だったのに。やれやれ。
娘の誕生日が近いので、今日はどこか娘が行きたいところに一緒に行ってやることにする。といっても遠いところにはいけない。ということで夕方までそれに時間を費やしてしまう。仕方あるまい。
図書館流通センターから本が届く。
ヴォンダ・N・マッキンタイア『太陽の王と月の妖獣 上・下』(幹遥子訳/各760円/ハヤカワ文庫SF)
ウィリアム・モリス『世界のはての泉 上・下』(川端康雄・兼松誠一訳/各2300円/晶文社)
小林信彦『現代〈死語〉ノート2 1977〜1999』(700円/岩波新書)
柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』(670円/岩波新書)
オーエン・W・リンツメイヤー『アップル・コンフィデンシャル』(林信行・柴田文彦訳/1800円/アスキー出版局)
ベレーネ・ウーリ『金曜日のアンナ』(1800円/大修館書店)
佐藤和之・米田正人『どうなる日本のことば』(1800円/大修館書店)
である。晶文社のモリスは、ウィリアム・モリス・コレクション全七巻の第一巻。これが今まで日本語になっていなかったとは改めて驚かされる。で、早速モリスを読んだかというとそうではなく、『アップル・コンフィデンシャル』を読んでしまった。本当は他にやるべきことがあるのにと思いながらも止められず、とうとう最後まで読んでしまう。それにしても、こんな失敗続きの会社がよくここまで成長できるものだと驚いた。
Weinberg Books at The Stars Our Destinationから二月のカタログが届く。カタログを見ていたら、Ash Tree Pressのバレイジをここから買ってしまおうかという気分になってしまう。やはり毎月届くカタログの誘惑には逆らえない。
ふと机の上を見るとFantasy Centreのカタログが。そういえば数日前に届いていたのであった。今回は我慢しておこう。
フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』(金原瑞人訳/理論社/1600円)が理論社から届く。一昨日註文してしまったのに。それにしても本文刷色を16色のグラデーションにするというのはちょっと変な感じがする。私が持っている英語の本はそんな印刷ではなかった。
アメリカのSF情報誌LOCUS二月号が届く。1999年総括が載っている。推薦作のページを見ると、SF部門で読んだものはロバート・チャールズ・ウィルスンのBIOSのみ。ファンタジイ部門では、ジョナサン・キャロル、リサ・ゴールドスタイン、J・K・ローリングの三冊(読みかけが一冊。ピーター・S・ビーグルである)。少ない。もっと読まねば(毎年こう云っているのだが、一向に増えないところが情けない)。
WWWブラウザiCab 1.9が出たので早速ダウンロード。当然のことながらドイツ語版である。この版からプラグインに対応したとかJAVAに対応したとか書いてある。が、私が使っている銀行のオンライン取引には対応できないようだ。残念。
後で香港のページでは前には正しく表示できていなかった漢字がうまく表示できるようになっていることに気付いた。
図書館流通センターに本を註文。
ロバート・ヘレンガ『フィレンツェ幻書行』(村井智之訳/扶桑社/1714円)
フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』(金原瑞人訳/理論社/1600円)
『書物の王国 15 奇跡』(国書刊行会/2400円)
マーヴィン・ピーク『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』(横山茂雄訳/国書刊行会/1900円)
以上四冊。
昨日一日ゆっくり休んだせいか、躰の調子が実に良い。背中の痛みも殆どなくなった。休養が必要だったということなのだろう。
日曜なのでゆっくり起きた。朝六時半である。届いた電子メールなど見ていたら頭が痛くなってきた。一時間ほどすると我慢できないくらいになったので、寝所に戻る。次第に酷くなってきたので朝から風呂に入ってみたが治まらない。やがて強烈な吐き気に襲われて吐く。といっても胃の中は空っぽだ。その後、昼過ぎまで眠る。昼食を摂ってからまた寝る。夕方、外出していた妻と娘が買ってきたショートケーキを一緒に食べようと起きて、ケーキを一口口に入れたら突然の吐き気に襲われ、激しく嘔吐。何故だ。頭痛は殆ど治まってきているのに。納得できないので、口の中を水で洗い流してすぐに煎餅をばりばり喰ってみる。何ともないではないか。心配して損した。その後、今日二度目の風呂に入るとすっかり頭痛は消えて気分はよくなる。軽い夕食を食べて寝る。頭痛の一日であった。
頭が痛くなって苦しんでいると、薬を飲めとよく云われる。が、私は頭痛には逆らわないようにしているのだ。痛みが消えるまで寝るだけである。疲れがたまっているときになる。しかも、緊張が緩んで今日はゆっくり休もうかなと思ったときになる。だから、頭痛が消えるまで躰を休ませてやるためだ。痛み止めを飲んで頭痛が消えたらきっと「今日はSF Scannerの原稿を書き終えよう」ということになって一日机に向かっていたに違いない。だから、これでいいのだ。それに、薬を飲んで頭痛が治まったこともない。
今日も本のことで書くことがない。人が漢字の読み方を間違えていたらどうするかという話。先日私が所属している講座の教授が「言質」を「げんしつ」と云った。どうしようかなと思ったが何も云わなかった。ただ偉そうにしているだけの愚かな人ではないので、間違えを指摘すれば耳を傾け、もしかしたら感謝すらするかも知れない。でも、何だか面倒臭いので何も云わなかった。それにひょっとしたら元々は誤読とはいえ、今では広く受け入れられていたりするかも知れないという怖れもある。「早急」を「そうきゅう」と読むとか、「独擅場」を「どくだんじょう」と読むとか。
夕方、SFマガジンのSF Scannerという未訳のSFやファンタジイを紹介する欄の原稿を書き始めた。今回は、ロバート・チャールズ・ウィルスンのBIOSである。一枚書いたところで眠くなって寝る。
今日も本のことで書くことがない。今回は漢字の読み方の話。「腔」の読み方である。これは普通「こう」と読む。「満腔の思い」だとか「腔腸動物(海月だとか磯巾着といった生き物が属している)」などの言葉でご存知のことと思う。ところが、これを医学や歯学の世界では「くう」と読む。口腔だとか鼻腔だとか腹腔を「こうくう」「びくう」「ふくくう」と読む。どう考えたって変だ。東京創元社のKさんも「<ふくくう>っていったら変だよねえ」と云っていた。私も変だと思うが習慣なので仕方がない。なぜ医学歯学の世界では「くう」と読むのだろうか。歯学部のある人の説(何の根拠もない想像である)では、ずうっと昔、医学部の偉い先生が間違えてこれを「くう」と読んでいた。「空」の字からの連想である。所謂、百姓読みという奴だ。昔は今と違って医学部の大学教授は本当に偉そうにしていて、読み方が違うなと思っても部下たちは「先生、漢字の読み方を間違えています」とはとても云えなかった。読み方が違うなと思わなかった部下たちは、「くう」と読むのだと信じてしまった。医学部には漢字の読み方をよく知らない人が多かったのか、いつの間にか皆「くう」と読むようになった。というのである。なるほど、そうかも知れない。我が家にある『日本語音声学』といった本(何故、こんな本がうちにあるのだろう)を捲ってみると、口腔には「こうこう」、鼻腔には「びこう」と振り仮名が振ってある。動物学などでは、動物の口の中や鼻の内腔は何と読むのだろう。
動物学といえば、普通の世界では「でんぱ」という伝播を「でんぱん」と読むらしい。この読み方の起源も恐らく「腔」と同様ではなかろうか。
今日も本のことで書くことがないので、言葉の話など。先日妻が郵便局に行ったときのこと。二〜三歳の子供を連れた若い女性が受付で何か郵便局員に頼んでいた。聞くとはなしに聞いてみると、小包みを大野城市に送りたいのだが「城」という字が書けないので宛名書きに「城」という字を書いて欲しいと頼んでいたのだった。外国人かと思ったが顔は日本人だったという。まあ、韓国や中国の人なら顔では識別できないだろう。しかし、中国の人なら「城」くらい書けるに違いない。まあ、ちょっと隣で話を聞いただけでは解らない事情があるのかも知れないが、日本で日本の教育を受けて来て「城」が書けないのだったらちょっと寂しい話である。大学で「かどわかす」が通じないのだから、「城」が書けない人がいても仕方がないか。
「〜ことがある」に「よく」という頻度を表す言葉を併用することはできないらしい。少なくとも外国人に日本語を教える教科書ではそう記されているという。確かに過去の経験や体験を表す文ではそうだろう。現在のことを表す表現ではどうだろう。「私でも野菜が食べたくなることがある」という文では言外に稀な出来事だよという気持ちが既に入っている。「私はよく無性に肉が食べたくなることがある」という文は可だろうか。これがあまり不自然に感じられないとしたら、もしかするとここでの「よく」は、実際はさほど頻繁ではなく「時々」を大袈裟に「よく」などと云ってしまっているだけだからなのかも知れない。云う方も聞く方もそれが解っているからなのかも知れない。とにかく、これから気を付けて読み聞き書くことにしよう。
ピーター・S・ビーグルのTAMSINは一向に捗らない。困ったものである。困ったことといえば、この頃、背中が痛くて困っている。背中は中学生の頃から痛むのだが、今年は特にひどい。風邪をひいたせいもあるだろうか。