今月も今日で終わりではないか。何ということだ。来週から新年度。憂鬱である。
『袖珍コンサイス英和辞典』がbk1から届く。袖珍というだけあって、小さい。活字も小さく読みづらい。昔の人は眼がよかったのか、いや、私が眼が悪いだけだろう。
システムソフト社が、事業転換に伴いシステムソフトエディタ 2.1とORGAI 3.0の製造と販売の中止を発表した。電子辞典シリーズと同様に製品開発は続け、ロゴヴィスタが販売を行うことを期待していたのに。私はこれまでずっとシステムソフトエディタ 2.1でこの日記を書いてきた。横書きの日本語原稿は殆どこれで書いてきたのだ。日本語縦書き原稿のおよそ四分の一はORGAIで書いた。どこかが買い取ってOS X版を開発してくれないだろうか。ちなみに今は横書き原稿はミミカキエディットで、縦書き原稿はLightWayTextで書くことが多い。
先週発送の連絡があったまま、なかなか届かずやきもきしていたPowerMac G4用の512MBメモリが届いた。関税を課せられなかったのも嬉しい。早速、装着。問題なく認識されて動いているようだ。これで、メモリは合計896MB。これでしばらくは安心だろう。次にメモリを増やすときは128MBのを一枚外さねばならない。
マイク・レズニック『サンティアゴ(上・下)』を読み進めるにつれて、自分がこの話を全然覚えていなかったことが解ってくる。結末には結構驚いたりしてしまった。情けない。読み終えて、またレズニックの賞金稼ぎSFが読みたくてたまらなくなってくる。『サンティアゴ』の続編も早く読みたいものだ。
このところ本業の方が忙しく、これまでになく雑用的な書類の処理の量が爆発的に増大しそうな嫌な予感がするのと同時に、来月中旬の職場の引越し作業も重く心を沈ませるので、現在憂鬱の極みに達している。という訳で、本日記の更新も滞りがちなのである。
ジョナサン・レセム『マザーレス・ブルックリン』を三分の一くらいまで読んだところで中断し、マイク・レズニック『サンティアゴ(上・下)』(内田昌之訳/創元SF文庫/上七二〇円・下七四〇円)を十年ぶりに読み返す。この本は手元になかったので復刊フェア版を購入。表紙も新しくなっている。レズニックは面白いので本来の目的を忘れて読み耽ってしまう。が、途中で所謂「ら抜き言葉」に遭遇し勢いが落ちる。
Mac OS Xは慣れればなかなか良さそうな気がしてきた。しかし、今の状態ではOS 9経由でないと印刷ができないことや、辞書関連ソフトのOS X版が一つもないのが致命的である。それから、仮名漢字変換。私が溜め込んできた歴史的仮名遣い辞書が使えなくて残念な状態。EGBridge OS X試用版をダウンロードしてみたが、単語登録や辞書の取り込みなどをしようとするとエラーが生じるので全然役に立たないのだった。
月曜日にbk1に註文した本が届く。
bk1に本を註文。
リービ英雄『日本語を書く部屋』(岩波書店/一八〇〇円)
藤永保『ことばはどこで育つか』(大修館書店/二四〇〇円)
このほか、昔買って読んだけれども手元にないSFの文庫本を六冊。
SFマガジン五月号が届く。
『ナボコフ短篇全集I』を読む。急いで読んだせいか言葉の流れに乗れずに、何だかわからないうちに終わってしまう作品もあって、こういう読み方をしてはいけないのだと反省する。しかし、SFマガジンのファンタジイ評に使えないかという魂胆があるので、急がねばならないのだ。ということで、SFマガジンのファンタジイ評を書く。あまりファンタジイらしい本が出なかった一ヶ月だったので、三ヶ月も前に出たサーデグ・ヘダーヤト『生埋め』まで使ってしまう。山之口洋『われはフランソワ』も、先月は紹介の仕方が思い付かなかったので取り上げなかったが、方法を思い付いたので今月は紹介する。日付けが変わる前に書き終え、Mac OS Xについてきたメール・ソフトで送信する。
新書館の原稿のゲラ、チェックしてファックスで送り返す。感熱紙に書き込んで、そのままファックスで送り返そうとしたら失敗。やはり一度普通紙にコピーしないと難しいのだった。カラー・プリンター兼ファックスを買ってしまおうかなと思うのはこういう時だ。
金曜日は省略。Mac OS Xが届く。早速インストール。β版のときよりもずっとよくなっている感じがする。Mac OS 9.1との切り替えも自然になった。しばらく使っていれば慣れそうな予感がする。β版を試してみたときにはもう駄目かとも思ったものだ。
Mac OS Xをいろいろ触っている間は嬉しいので無視していたが、夕方から頭痛を感じはじめ、仕方がないので早く寝る。
朝、新書館の原稿を二本書いて送信。
一昨日註文した本が、bk1から届く。ブライアン・ラムレイ『タイタス・クロウの事件簿』、ジョナサン・レセム『マザーレス・ブルックリン』、大野晋・上野健爾『学力があぶない』の三冊と、ハリー・ポッター二冊。『タイタス・クロウの事件簿』は、表紙がなかなか良い。レセムの本は新書館ブックガイド用。
一日中眼が痛い。しかし、この私に限って花粉症はあり得ない、と信じたい。
Alibris.comからヴァーノン・リーのPope Jacynth and Other Fantastic Talesが届く。この本、刊行年が記されていない。それで安かったのか。
新書館の原稿を一本書いて送信。
Mac OS Xを発送したというお知らせがアップル社から来た。まだ二十一日なのに。二四日に届くように手配してあるのだろうか。それともその前に来てしまうのだろうか。
ロバート・アスプリン『大魔術師、故郷に帰る!』(矢口悟訳/六二〇円/ハヤカワ文庫FT)が届く。解説を書いたので本文も既に読んでいる。わざわざ速達で送ってくださったようだ。
$159.00の512MBメモリの送料に関する返事が届いた。送料手数料など含めて$186.22ということなので、少々迷った末に註文のファックスを送る。円安が進んでいるので、二三〇〇〇円くらい。相場から考えると安いとは思うが私にとってどれほど必要なものかということを考えると、決して安いとは云えないのではないかととも思えるのだ。
bk1に本を註文。
ブライアン・ラムレイ『タイタス・クロウの事件簿』(夏来健次訳/七六〇円/創元推理文庫)
『袖珍コンサイス英和辞典』(三省堂/三二〇〇円)
ジョナサン・レセム『マザーレス・ブルックリン』(佐々田雅子/九四〇円/ミステリアス・プレス文庫)
大野晋・上野健爾『学力があぶない』(岩波新書/七四〇円)
これに『ハリー・ポッター』の既訳分二冊。娘がハリー・ポッターを読みたいと云って学校の図書館で読んだりしているらしい。我が家にあるのだからと云っているのに何故家のを読まないのだろうと思っていたら、妻が云うには、私が汚すなとか乱暴に扱うなとかうるさいことをいうから読みづらいのだろうということらしい。娘に訊ねると、それだけではないが、確かにそういう理由もあるという。前にも何冊か私の本は読んでいるが、『ハリー・ポッター』はこれまでに読んだ本よりも厚いので読むのに時間がかかり、汚したりしてしまう可能性は高いに違いなく、それで私の本を読むのを躊躇っていたという。それを聞いて可哀想になって買ってやったという訳だ。
『袖珍コンサイス英和辞典』は、大正十一年に刊行された初版の復刻版。古い言葉が載っているのではないかと期待して。古い作品を翻訳するときに、ひょっとして役立つかも知れない。恐らくそんなことはないとは思うが。
新書館の原稿、一つ書いて送信。
サーデグ・ヘダーヤト『生埋め』を読む。イラン人の作家だというせいもあってか、不思議な味わいのある作品もあるが、実は全然幻想的ではなかったりする。よく考えると自殺の話ばかりという気がしないでもない。
リチャード・ペック『シカゴよりこわい町』を読む。面白い。実に面白い。こういう本を読むと、歳をとるのがそんなに嫌でもなくなるのだが、私は歳をとっても爺さんにはなれるが、決して婆さんにはなれない。老婆が活躍する物語はあるが、爺が活躍する話はそれよりずっと少ないような気がする。しかし、この本も幻想味はない。月末が近づいてきているので、幻想的な本が必要なのだが。
トーナス・カボチャラダムス『カボチャドキヤ』を読む。変な本だ。南瓜の国の話かと思ったら、門司の話だった。いや、南瓜の門司の話だったという方が正しいか。
金沢正剛監修『誰も言わなかった「大演奏家バッハ」鑑賞法』が、bk1から届く。
昨日食虫植物のホームページなど眺めていたら、植え替えの時期だということに気がついた。そこで、水苔と鉢を購入し早速植え替え。今年は水苔以外のものも試してみたかったのだが、買いに行った店が近所のダイエーだったので、ピートモス等は売っていなかったのだった。というわけで今年も水苔。蝿取り草は随分数が増えてきてしまった。
ロバート・ジョーダン『竜魔大戦8 聖都炎上!』を読む。やっと辿り着いた第四部完結編。しかし、全然話は完結しないのだった。まだまだ先は長い。ところで、このシリーズでは貨幣の「金」を「カネ」と片仮名で表記しているのにどうも馴染めない。「キン」と区別しやすいようにということだろうか。それとも、近頃の若い読者は「金」という漢字が読めないのだろうか。
ロバート・J・ソウヤーの『さよならダイノサウルス』(内田昌之訳/ハヤカワ文庫SF/一九九六年)の内容をすっかり忘れてしまっていることに気づき、慌てて読み直す。面白く読んだことは覚えていたのだが。
このところずっと下落傾向にあったメモリ価格が下げ止まってやや上昇に転じたという記事を読み、メモリを購入したくなった。Coast to Coast Memoryが随分安いようなので、日本にも発送してくれますかというメールを出す。PowerMac G4用の512MBが$159.00である。このところ円安が進んでいるといっても、これは安いと思う。
新書館から出るというSF&ファンタジイのブックガイドのような本の原稿を書く。『ゾッド・ワロップ』など三項目を書き終え、二項目分を送信。
九州大学のアサガオホームページを見ていたら、朝顔の種を蒔きたくてたまらなくなってきてしまった。でも、いくらなんでも今はまだ早すぎる。五月の連休明けの種蒔きが待ち遠しい。昨年は引越しと種蒔きの時期が重なってしまって蒔きそびれてしまったのだ。今年は二年分蒔かねばなるまい。
食虫植物のお部屋などの食虫植物関係のサイトを眺めていたら、食虫植物の世話をしたくなってくる。我が家の蝿取り草(ハエトリグサ)と毛氈苔(モウセンゴケ)は今年はことのほか元気である。暖かくなってきたら植え替えてやろう。しかし、私は蒐集癖があるので、あまり食虫植物や朝顔に熱中しないように気分を抑えるのを忘れてはならない。集めるのは本だけでも多過ぎるので。
マイクル・コーディ『クライム・ゼロ』(内田昌之訳/一八〇〇円/徳間書店)を訳者の内田氏からいただく。どうもありがとうございました。近未来遺伝子スリラーとでもいえばよいのだろうか。中身は実は何箇月も前に読んでいるのだった。
Alibris.comからヴァーノン・リー発送の連絡がある。送料が高いような気がする。船便はないのだろうか。と思ったのだが、今日、Nonculturable Microorganisms in the Environmentという本をAmerican Society for Microbiologyに註文したら、船便なのに送料が$5.60ではないか。どうもよくわからない。
早川書房からロバート・ジョーダン『竜魔大戦8 聖都炎上!』が届く。第四部がやっと完結した。
Adobe Acrobat 4.0のPaper Capture機能が使えない。前には使えたような気がするのに。5.0が来月発売されるという。それで使えるようになればいいのだが。
一昨日註文した本がbk1から届く。『誰も言わなかった「大演奏家バッハ」鑑賞法』以外の六冊。『ザ・ライフルズ』がちょっと読みにくそう。
Alibris.comにヴァーノン・リーのPope Jacynth and Other Fantastic Talesという本を註文。価格は$12.00で、送料が$5.95。収録作品はよく解らない。突然、ヴァーノン・リーが読みたくなってきたのである。
言語四月号が届く。今月の特集は〈「授受」の言語学〉。特集とは別の「先住民言語と暗号」というのが面白かった。第二次世界大戦で使われたアメリカ先住民族の言語と暗号に関するもの。
システムを移して起動ハードディスクを変えたら起動が格段に速くなった。驚いた。
bk1に本を註文。
小林章夫『イギリス英語の裏表』(ちくま新書/680円)
ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン『旅に出ても古書店めぐり』(浅倉久志訳/ハヤカワ文庫NF/690円)
金沢正剛監修『誰も言わなかった「大演奏家バッハ」鑑賞法』(講談社/1800円)
ウィリアム・T.ヴォルマン『ザ・ライフルズ』(栩木玲子訳/国書刊行会〈文学の冒険シリーズ〉/3500円)
サーデグ・ヘダーヤト『生埋め』(石井 啓一郎訳/国書刊行会〈文学の冒険シリーズ〉/2000円)
リチャード・ペック『シカゴよりこわい町』(斎藤倫子訳/東京創元社/1900円)
トーナス・カボチャラダムス『カボチャドキヤ』(河出書房新社/2000円)
以上七冊。久し振りなのでいろいろ。
『新・SFハンドブック』の原稿を手直しをして送信。
CD-ROM新和英大辞典(第四版)が届く。CD-ROMに入っている閲覧ソフトはなぜか文字が正常に入力できず全く用をなさない。もともと使う予定はなかったので構わないのだが。早速、圧縮してハードディスクに収納。100MBほどの容量である。ついでに滅多に使わないファイルをCD-Rに移してハードディスクを整理するという作業に再び挑戦するが、また「変換できないファイル名云々」でうまく行かない。ここに書く気にもならないさまざまな試みを繰り返し最終的には全部纏めて辞書と同様にDiskCopyで一個の圧縮ファイルにしたら文句を云われなくなった。お陰で、取りだすときには余計な手間が掛かるようになってしまったものの、容量としては随分節約できたのかも知れない。
幻想文学六十号が届く。特集<幻想ベストブック一九九三〜二〇〇〇>の中の「総力アンケート<私のベスト3>」というところに惚けたことを書いているので少々恥ずかしい。
102という犬がいっぱい出てくる映画を家族三人で観に行く。第一作と同様に他愛もない子ども向けの話である。過去のディズニー映画と重ね合わせる場面はちょっと面白かった。
ハードディスクの中に死蔵しているインストーラやらアップデータやらを纏めてCD-Rの中へ移動させてハードディスクを身軽にしようとしたら、「変換できないファイル名があります」とか何とかDisc Burner機能が文句を云う。何故だ何故だ。何が不満なのだ。その「変換できないファイル名」とやらを特定してくれないのでどのファイル名がいけないのか解らず対処できないではないか。
夕方、頭痛の兆しが感じはじめてきたので、夕食を少なめにして七時頃に寝てしまう。
eとらんす四月号が届く。特集<本はどうなる!?>の中で、場違いな原稿を書いているのでかなり恥ずかしい。もう一つの特集<ベスト翻訳書セレクション>には知っている人がたくさん出ている。
アメリカのSF情報誌LOCUSが届く。ぼんやりと中を眺めてから寝る。
ジョナサン・キャロルのTHE WOODEN SEAを読んでいるが全然捗らない。
昔書いた『SFハンドブック』の原稿を手直しして再利用するので修正して欲しいという連絡がある。フレドリック・ブラウンの『火星人ゴー・ホーム』の内容紹介である。そういえばこんなものを書いたことがあったと微かな記憶が甦った。
風邪は徐々に治ってきているものの、早く寝て遅く起きる日々なので、本は読めないし、本の註文をする元気もない。
日曜日の朝はどうも頭痛が始まりそうだという嫌な予感を抱きながら、SFマガジンの海外作品の紹介原稿を書いて送信。パット・マーフィーのTHERE AND BACK AGAINである。
午後からは、最近読んだ児童向けファンタジイの内容をまとめる作業に入ったが、頭痛が次第に酷くなってきたので風呂に入って寝る。夕食時に起きて、食事をしてから再び風呂に入って寝る。頭痛は更に酷くなってきて、夕食を食べたことを後悔する。夜中に頭痛と吐き気で目が覚めて、三たび風呂に入る。頭痛が少しおさまったような気がしてほっとするとすぐに、胃の中のものが込み上げてくる。トイレで激しく嘔吐(湯船の中でなくてよかった)。汚い話で申し訳ない。とにかく吐いてしまえば三時間後には頭痛は消えると約束されたようなものなので、安心して寝る。午前一時半だった。四時半に目覚めると、予想通り頭痛はほぼ消えている。普段なら起きる時間だが、具合が悪いので一時間多く寝てから、五時半に起きて朝食を摂って出勤。
風邪をひいてしまった。鼻水が止めどなく出てきて、咽も痛い。気分が悪くて本も読めないので、部屋の片づけなど。夕方はバッハを聴きながらSFマガジンの海外作品の紹介ページの原稿など書こうとしてみるが、風邪で苦しいのですぐに寝てしまう。
Amazon.com Booksからメールが届き、"American Sign Language Dictionary Book/CD-ROM for Macintosh Bundle"は結局入手できなかった、すまないね、ということだった。残念。
先日購入したPowerMac G4は今のところほぼ快適に動いているが、キーボードがどうもよくないようだ。暫く使っていると腕が痛くなってくる。これでは、ちょっと長い文章を書けないではないか。見た目がなかなかよいのだが、打ちづらくては意味がない。前のキーボードを使う方法はないだろうか。ADBポートが使えるようになるPCIカードを挿せばいいのかも知れないが、それでは将来液晶モニター四枚計画の邪魔になってしまう。
研究社のCD-ROM新和英大辞典(第四版)を日外電子辞書Shopに註文する。一割引で10,800円。理化学辞典とか生物学辞典のCD-ROMも欲しくなるが、今日のところは我慢する。でも、本当に欲しいのは日本語語彙体系 CD-ROM版だ。
アップルストアに電話して、既に註文してあるMac OS XをInternational版に変更してもらう。OS Xは各国語版が一緒に入っている筈なのでどういうことなのかと訊ねたら、OS 9.1の方が英語版になっているのだという。私が求めているのはまさしくそれなので、早速そのInternational版というのに変更してくれと告げる。
昨日の<ら抜き言葉>の続き。
尊敬と受身の意味の分離のために<ら抜き言葉>が用いられるようになったなどと云われることがあるが、それは結果であって原因ではない。擁護者が利点として挙げるのは理解できる。ただ、所謂<ら抜き言葉>が現れた理由はそこにはない。動詞の活用形の区別ができない者が、それまで可能動詞が作れなかった動詞でも強引に可能動詞形(だと本人が信じている語形)を作ってしまっただけであって、しかも使用者は強引に作ったとは自覚していない。可能の表現は全部可能動詞を用いたいという欲求から生じた語形に他ならない。「寝レル」を「練れる」と全く同じ語形だと思って用いているだけだ。
この語形を一つにしてしまいたいという欲求の強さを示す証拠がある。今までの所謂<ら抜き言葉>は、可能の表現は可能動詞に統一したいという欲求から生じてきている訳だが、可能動詞を作るという語形変化よりももっと単純化した形を見出した人々もいて、その人々の可能表現は「すべて動詞の語尾を<れる>にする」というものである。つまり可能動詞にも「れる」をつけてしまうということで、「歩けレル」とか「書けレル」とかいう表現である。この頃、西日本ではときおり耳にする言い方だ。私は「出来レナイ」という表現すら聞いたことがある。数十年後には可能の表現は「れる」で終えるという形で統一されるに違いないと私は予想している。