十一月二六〜二九日


 いつの間にか四日が経過してゐる。

 bk1から二五日に註文した本が届く。文庫本一冊にカバーがかかってゐて、吃驚。『生かしておきたい江戸ことば450語』をぱらぱらと捲ってみると、これはなかなか面白い。用例を殆ど落語からとってゐるので、落語を聴くに役立つ。

 BOLからベンスンの怪奇小説集が届く。実は前に出た版も持ってゐるので、これで二冊目。

 キャサリン・アサロ『目覚めよ、女王戦士の翼!()』(中原尚哉訳/各820円/ハヤカワ文庫SF)を訳者の中原氏からいただく。ありがたうございました。

 木曜の晩は職場の宴会。嫌々乍出席したが、いつもより多めに飲んでしまひ傘を間違へて持って帰ってきてしまった。


十一月二五日(日)


 bk1に本を註文。
マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』(嶋田洋一訳/ソニー・マガジンズ/840円)
C・S・ルイス『沈黙の惑星を離れて マラカンドラ火星編』(中村妙子訳/原書房/1800円)
沢田一矢『生かしておきたい江戸ことば450語』(三省堂/1600円)
椎名誠『飛ぶ男、噛む女』(新潮社/1500円)
北野勇作『ザリガニマン』(徳間デュアル文庫/476円)
フィリップ・ブルマン『琥珀の望遠鏡』(新潮社/2700円)
以上六冊。C・S・ルイスのは、1979年に出た奇想天外社版も持ってゐるのだが、念のため。『江戸言葉』の本は、古典話芸を念頭において書かれた本のやうなので、買っておかうといふ気になった。古いもの好きな私でも、古い録音の落語を聴くときなどには知らない言葉が出てきたりするので。プルマンのは「ライラの冒険」の第三巻だ。予約註文である。

 SFマガジンの一年間を振り返るアンケート、2001マイ・ベスト5の回答を送る。送られてきた参考資料を見ながら、読んだ本に印を附けていくと、翻訳作品は読んだものが実に多いやうに思はれ、しかしよくよく見ると、毎月刊行の分冊大河ファンタジイがあるから、読了冊数だけは多くなったやうなのだ。今月刊行分から、それらの月刊大河ファンタジイを読むのかどうか。


十一月二四日(土)


 SFマガジン一月号が届く。私のファンタジイ評が載るのもこれが最後。SFマガジンの締め切りがない月末といふのも七年ぶりなので、何となく奇妙な気分。

 一日中翻訳。作品はまだ秘密だ。


十一月二三日(金)


 娘と一緒に映画館へ行って「キャッツ アンド ドッグス」を観る。どうも満足できなかった。悪ふざけが物足りないといふか徹底してゐないといふか。結末も、まああれでいいのだらうがどうも安っぽい。やはり子供向け映画だったといふことなのだらうか。子供向けなのか、あれは。娘は喜んでゐたが。


十一月十九〜二二日


 私はいつも朝五時二〇分に家を出て五時四三分の電車に乗り、五時五〇分頃福岡天神駅で地下鉄に乗り換へるのだが、冬になると、その乗り換へのために歩く通路に寝起きする浮浪者の数が増えてくる。夏は風通しのよい屋外で寝るのだらう。さういった人々は風呂に入らないやうで、実に臭い。これが困る。誰が通路で寝たって私には関係ないのだが、あの臭気は困る。で、月曜日の早朝もいつものやうに電車を降りて地下へ向かふ通路を歩いてゐると、異様な悪臭が漂ってゐた。ふと目を彷徨はせて悪臭の元を探してみると、浮浪者の一人が何としゃがんで新聞紙で尻を拭いてゐるではないか。なぜ、外でしないのか。漏らしてしまったのか。困るではないか。臭いではないか。しかし、どうすることもできず、足早に通り過ぎるしかなかった。二五年ほど前、電車の中(東武東上線池袋発川越市行き準急だったらうか)でいきなり放尿を始めた浮浪者ふうの爺を目撃したことはあるが、駅の通路で脱糞してゐる浮浪者を見たのは初めてだった。

 二日後の朝、同じやうに早朝に駅の通路を歩いてゐると、警官が二人、何やら通路で寝てゐる浮浪者たちに話しかけてゐた。場所を移動するやうに指示してゐるやうに見えた。こんなところで寝るなと云ってゐるのか、大便はトイレでするやうにと云ってゐるのか。

 その翌朝、通路から浮浪者の姿は消えた。人が歩かない地下道の奥まったところには、沢山寝てゐるのだが、少なくとも人が歩く道からはゐなくなった。やはり、あの脱糞事件が警察を動かしたのだらうか。

 『M・R・ジェイムズ怪談全集1』を読んでゐると、歴史的仮名遣ひが多いことに気づく。『M・R・ジェイムズ怪談全集2』に収録されてゐる「ホイットミンスター寺院の僧房」などは殆ど歴史的仮名遣ひで綴られてゐるではないか。かういふ古風な怪奇小説はいっそのこと全部歴史的仮名遣ひにしてしまへばよいのに。でも、ときどき仮名遣ひを間違へてゐるところもある。例へば、『第一巻』の三四四ページに「窺いつつ」といふところがあるが、これは「窺ひつつ」であらう。かういふのが他にもある。まあ、私だって間違へることはあるのだけれど、これはちゃんとした出版物だから。


十一月十八日(日)


 HMVからCDが届く。YO-YO MAの無伴奏チェロ組曲を聴き、ハードディスクにmp3ファイルにして入れてみたりしたりした後で、圓生の「火事息子・ちきり伊勢屋」を入れると自動的にデーターベースを検索して曲名を表示しようとするのがiTuneだった。落語は出てくる訳がないのだが、なぜかThe Art Ensemble of ChicagoのQuartet No.2とTrio (Oh Susanna)といふ曲だと表示された。かういふこともあるのか。

 昨日届いたMacintosh雑誌を読んでゐたら、またiPodが欲しくなってきた。困ったものだ。バッハを入れるか、落語を入れるかが問題だ。


十一月十七日(土)


 幻想文学62号が届く。今号の特集は「魔都物語 都市が紡ぐ幻想と怪奇」である。私が訳したダンセイニの短篇が冒頭に載ってゐて驚いた。恥づかしいが、久しぶりに翻訳が載るのは嬉しい。


十一月十四〜十六日


 中田耕治編『恐怖の1ダース』(講談社文庫)が、ジグソーハウスから届く。

 PowerMac 7500がPacificNetから職場に届く。早速PowerMac 9500の中身を移動。メモリ、カード、ハードディスクなど総て問題なくそのまま使用できた。よかった、これで今まで通りに、いや、今までより調子がよくなった。仕事にさほど支障が生ずることなくすんだ。中古のコンピュータを慌てて探して註文して二日で届けられるのだから、便利な世の中になったものだ。


十一月十三日(火)


 Amazon.co.jpからThe Complete Saki (Penguin)が届く。

 数日前にBOLから届いた、Rudyard Kipling and others THE ROOM IN THE TOWER AND OTHER GHOST STORIESといふ本、キプリング、レ・ファニュ、ベンスンと三人の怪奇小説が収録されてゐて、これが2ポンド25。安い、と思ってゐたら、本を手に取って吃驚。英語の教材だったのだ。600語の語彙で読めるといふ読み物だ。この薄さで2ポンド25とは高い。それに、600語の語彙で読めるキプリング、レ・ファニュ、ベンスンなんか読みたくはない。


十一月十二日(月)


 アトリエサードから、トーキングヘッズ叢書16 パリ-エトランジェが届く。今回は、「フランスは苦手なので」などと訳の解らぬ理由で原稿を書かなかったのに、一冊送ってくれるとは、何と心が広いのだらう。

 アメリカのSF情報誌LOCUSの11月号が届く。書評欄が増えてゐるやうに感じられるのは気のせゐか。

 職場で使ってゐるPowerMac 9500(私物)が起動できなくなる。どうもSCSI系統が認識できなくなってしまったらしい。ないと困るので、直ちにPowerMac 7500を註文。PacificNetで9800円(送料と消費税を入れると12390円)だった。木曜日には届くといふ。


十一月十一日(日)


 娘と一緒に映画館へ行って「キャッツ アンド ドッグス」を観ようかと思ってゐたのだけれど、字幕版は夕方五時からしかやってゐないと解った。夕方から出かけるのが嫌ひなので、では「エボリューション」にしようと云って断られてしまふ。「怖さうだから」と娘は云ふが、どこが一体怖さうなのか。怖くはないと云っても納得しない。どうしてまだ観てゐない映画が怖くないと解るのかと私に云ふ。どうも私のことを信用してゐないやうだ。

 一週間前にスーパー源氏で検索して註文しておいた本がまだ来ない。古本文庫横丁に「もう待てません。心配で心配で・・・」といふメールを出してから、再び検索して、もう一冊別の古本屋に註文してしまふ。我慢できなかったのだ。その後、家族三人で昼食を食べようと家を出るときに、郵便受けに本が這入ってゐるのに気がついた。食事を終へて帰宅してから、本が届いたことを報告するメールを急いで出す。しかし、二冊目の註文は取り消すこともできない。もしかしたら不可能ではないのかも知れないが、しない。つくづく自分が莫迦だと思ふのはこんな時だ。因みに註文した本は、中田耕治編『恐怖の1ダース』(講談社文庫)である。

 彷書月刊の原稿を書く。来年一月号の特集「世界の古本屋」の中の「インターネット世界の古本屋」といふもの。何をどう書いたらいいのかよく攫めないまま、指定枚数の八割くらゐの分量を書いてみる。こんな感じでいいのだらうかと悩みながら就寝。


十一月十日(土)


 『M・R・ジェイムズ怪談全集1』を半分くらゐ読む。この本では、ラテン語の部分や古文書の部分などは歴史的仮名遣ひで訳してあるのだが、最初の方で「ゐた」と記すべきところが「いた」となってゐるところがあって些かがっかりする。

 休みなので本屋へ行く。古本屋でP・L・トラヴァース『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』(林容吉訳/岩波書店)を見つけたので購入。前に新刊書店では品切れで入手できなかったものだからだが、今、bk1で検索すると24時間以内出荷の表示になってゐるので、増刷されたのだらうか。帰宅して娘に渡してやると喜んでゐた。『公園のメアリー・ポピンズ』が本当に24時間以内出荷が可能なら註文しておかうか。

 本橋信宏『依存したがる人々』(七八〇円/ちくま文庫)を書店で手に取り、買ってしまった。しかも、読んでしまった。気分が沈んでしまふ。

 私は本を読んだり映画を観たりして、涙を流したりしたことがなく、娘と映画を観に行ったりすると、「お父さんは冷たい」などと云はれるのだが、私は涙の量と悲しみの量は比例しないと思ってゐる。よく涙を流す奴は単に涙もろいだけだと思ふが。しかし、私も歳を取ったせゐか、涙腺が弱くなったやうだ。内田百けんの『御馳走帖』を読んでゐたら、「一本七勺」といふ話の最後の文のところで、手に持った本の活字がうるんでよく見えなくなった。


十一月九日(金)


 東京創元社から『M・R・ジェイムズ怪談全集2』(紀田順一郎訳/八二〇円/創元推理文庫)が届く。嬉しい。やはり、古い怪奇小説はいいものである。

 HMVにCDを註文。Yo-yo Ma演奏の無伴奏チェロ組曲(二回目の録音の方)と五代目古今亭志ん生の落語一枚、さらに六代目三遊亭圓生の落語一枚である。
 アップル社はiPodの発売の延期を発表したさうで、私ももう少し購入の検討を続けてみようかといふ気分になってきた。この頃はバッハといふと無伴奏チェロ組曲ばかり(特に第六番)を聴いてゐるのだが、iPodでバッハの曲を聴くのもいいかも知れないといふ気持ちもないではない。しかし、私のPowerMac G4に這入ってゐるバッハのmp3ファイルはどうやら6GBほどあり、全部はiPodには這入らない。さう考へると何だか悔しい。勿論、全部をいつも聴く訳ではないのだから、そんなに必要はないのだが。
 iPodで志ん生を聴くのはどうだらうかと考へる。人の話し聲なら、周囲の音も聞こえなくなることもあまりないのではなからうか。高音質を自慢するiPodで四十年くらゐ前に録音した志ん生の聲を聴くといふのも、気分のいいものかも知れない。CD百枚分の落語を入れておいて、無作為に演目を選んで聴くのである。問題は、バッハは既に二百枚くらゐのCDを持ってゐるが、落語は数枚しか手元にないといふことである。これから、百枚買ふのには金がかかる。


十一月四〜八日


 先日bk1に註文した三冊は二日後には届いた。まだ、読んでゐない。

 いろいろ考へてiPodは買はないことにした。私は外でイヤホンを使って音楽を聴くのは好きではないのだ。周囲の音がよく聞こえないと不安ではないか。車の音など聞こえないと危ないではないか。歩いてゐる後ろで通り魔殺人が発生して、次々と人が刺されて悲鳴をあげてゐるのに気づかず、自分がその次の被害者になったりはしまいか、などと考へると不安である。でも、電車に乗ったときには平気で眠るから、電車の中では構はないかなあと思はないでもない。

 近ごろ気づいたのだが、内田百けんは可能動詞を使はないのではなからうか。絶対使はないのかどうかは確証がないが、少なくとも極力使はないやうにしてゐたのは間違ひないのではないだらうか。百けん好きの方の意見を求む。鴎外も可能動詞を殆ど使はないと思ふ。
 百けんと鴎外が使はないのなら、私も使ふのを避けようかなと思ふこの頃である。


十一月一〜三日


 iTunes2をダウンロードしてゐたら、iPodが欲しくなってきてしまったが、今は我慢する。今のところ、iTunes2は英語版と日本語版のみ。先程までドイツ語表示だったのに、新しくしたら英語表示になってしまって、少々寂しい。iPodはドイツ語対応だといふ。

 bk1に本を註文。
ヒュー・ウォルポール『銀の仮面』(倉阪鬼一郎訳/国書刊行会/2200円)
シンシア・マンソン編『本の殺人事件簿』(曽田和子監訳/バベル・プレス/1200円)
森英俊・野村宏平編『乱歩の選んだベスト・ホラー』(ちくま文庫)
以上三冊。最後のは、買ったやうな気がしてゐたのだが、書棚を探しても見つからないので、註文。もしかしたら、どこかにあるのかも知れないが。


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