今年も今日で終わり。大晦日の晩を皆さん如何お過ごしでしょうか。今年一年を振り返りながら、年越し蕎麦を食べつつ、新しい年への決意を新たにしてみたり。私はそんなことは一切関係なく、ひたすら箱に本を詰めたわけです。明日になっても今日と何も変わりませんよ。同じように陽が昇って、そして日が沈むだけ。箱詰めされた本は増えるでしょうが。
今日は100箱目まで。3月の引越しのときと同じくらいまで到達したはずだが、今目の前にしている箱の方が断然少なく見えるのはなぜだろうか。
三日で100箱詰められたということは、あと三日で200箱の箱詰めが完了するのだろうか。空っぽになった書棚も増えてきたから、もしかしたら本当に終わりがあるのかもしれないという気がしてきた。
部屋の隅の床の近くにあった本に黴が生えている。九が月前に置いた書棚の下の床にもう黴が生えていた。この部屋は冷たく湿気を帯びてしまうのである。人が生活していない部屋はなかなか管理が難しい。日が差さない暗い部屋だと黴が生えるし、日光の当たる明るい部屋だと本が日焼けしてしまう。いずれにせよ、引越し後はこんなことにならないように気をつけたい。
一人で黙々と本を箱に詰めていると頭の中が空っぽになってくる。忙しけれども退屈である。本の間から挟まれて身動きが取れなくなったまま干からびた人間が出てきたりすることもなく、もくもくと作業を続けなくてはならない。こんなときには音楽でも聴けばいいのだろうか。iPod Touchを持っているのだから、これで音楽を聴けばいいのだ。でも、周囲の音が聞こえないと不安だから、ちょっと今の私には難しい。やはり一人黙々と静かな部屋で、黴が生えた本に対して二度とこんな目には遭わせないと謝りながら本を箱に詰め続けるのである。
今日は64箱まで。あまり積み上げるなと前回引越し業者に云われてたのにまた積み上げてしまった。でも、今回は下の方の箱が潰れないように、上に行くに従って少なくなるようにしてみた。
それにしても全然減ったように感じられない。写真を撮ってみてもこんな感じである。
今日は10時間くらい(途中で20分×3回程度の休憩あり)働いた。それで、この程度しか捗らないとは。私は作業を甘く見ていたのかも知れない。間に合うのか。
書棚に詰まっている本にも新しい層、古い層があって、古い層だと、もう見たこともないような本や雑誌が見つかって驚くこともある。そんな驚いた品々をここで紹介しようかと思ったけれども、そんなことをしていたら箱詰め作業が終わらないので、我慢した。
箱詰めしているとだんだん時間の感覚が麻痺してくる。ただただ箱に本を詰める。箱に描かれたパンダの絵を見つめていると、次第に意識が遠くなって、はっと気がつくと「勉強しま〜せ、引越しの○○○!」と踊り狂っていた……などと面白いことも起こらず、ただ黙々と箱に本を詰める。
中古の箱はやはり3度目以上の出動に間違いないと思われるものもたくさんあって、内容表示を消して書き直した跡がある。さらに私が書き直すわけだが、私は「本」しかないので、あまり訂正しない。ただ、本1から本64まで進んだだけである。
明日は筋肉痛になりそうな予感。
引越しである。三月に引っ越したのに、また荷造りである。今回は本が200箱と見積もられたのでかなりはやめに準備を始めた方がいいだろうと判断した。前回は90箱であった。
ひたすら本を詰める。今日は七時間ほど働いて、30箱まで詰めた。昨日までに3箱詰めていたから、今日は27箱である。一時間に4箱くらいしか詰められないという計算になる。200箱詰めるには50時間ほど働く必要があるようだ。一日七時間でちょうど一週間だ。明日からは八時間以上働こう。
写真を撮ろうとしたら、デジカメの電池が切れてしまった。仕方がないのでWX340K(WillcomのPHS機)で撮影。全然進んだ気がしない。本当に終わるのだろうか、この作業は。
引越し用の箱を一つ底の方だけテープを貼ってじっと眺めてみる。何か変ではないか。前と違うような気がしないか。
一箱本を詰めてみても違和感は消えない。大きさが違うのではないか。早速、昨年の箱と並べてみた。手前が今年の箱、奥が昨年の箱である。5 cm短くなっている。ということは、90→200箱になっても、1.94倍にしかならないのだ。足りるのか。本当に足りるのか。
今日は試しに一箱作ってみただけだが、大きさが3月のときよりも小さいことに気付いてしまった。激しくやる気を喪失して、もう寝てしまおうと決意したところである。
引越しの準備である。複数の会社に見積もりを依頼して比較検討するのがよいとされているが、そんな余裕がないので、最初の一社に決めてしまう。三月も使ったし、来年二月も使うのだから、そこのところを考慮してくれとだけいう。
3月に福岡から来たときには段ボール90個分の本があったと云うと、今回運ぶ本を眺めて、「200くらいですね」と云った。他の荷物は本当に少ない。パソコン以外の電化製品は一切ない。それはそんなに喜ぶことでもなくて、引越しと同時に新たに購入しなければならないということなのだ。
箱は50個は無料だが、それ以上は有料である。200箱もあるのに有料の箱を買うのは嫌だなと思ったら、中古なら無料で持ってくるという。200個の中古の箱を持ってきてもらうように頼む。明日か明後日には持ってきてくれるそうだ。90個の箱詰めは大変だった。200個はもっと大変である。年末年始の休みはただただ本を箱に詰め続けることになりそうだ。SFマガジンの原稿も書かなければならないのだけど。
200箱の箱詰めは、初めてすると客が云ったら断ることもあるらしい。断るというのは仕事を断ってしまうのではなく、一人でするのはやめてくれいって、手伝いを了承させるという。100箱の本の箱詰め作業を甘く見ていて引越し当日に間に合わなくなり、大変なことになってしまうことがあるかだらそうだ。3月に90箱の準備をしたなら作業の大変さが身に染みて判っているだろうから、ちゃんと計画できるでしょうと云われる。まあ、だから一月半も前に連絡したわけだが。
前に500箱の本を持っている人の引越しを担当したことがあると云っていた。その人も自分で箱詰めしたらしい。その時も、500箱の引越しは経験があるから自分でできると云ったので任せたが、初めてだったら手伝い付きのコースを選ばせていたはずだという。その人は一回で運んだのではなく、3回くらいに分けて、一回分の片づけが終わると次の搬入を頼んだのだという。間に合わないのではないかと思ったが、その人はきちんと約束通りの期日に片づけを終えて次を頼むのだという。
こんどの週末から箱詰め作業の開始である。本を詰めた箱をどこに置いたらいいのかまだよく判らない。難しい……
3月と同じ会社ということは、即ちサカイ引越センターである。この会社の名前を聞くと1993年のTVCMが頭の中で繰り返し流れて困るということは前にも書いた。これを頭の中で再生しながら荷造りすることになるのだろう。たまには「サカイでアミーゴ!」 と叫んでみたりしようか(1994年)。
古くさいものが好きだということと、腕に何かを巻き付けておくのが嫌いだということなどがあって、私はあまり腕時計は使わず、懐中時計を使っていた。ただ、夏はポケットが少なくなるので、もっぱら冬に持ち歩いていた。
今使っているのは高校生の頃に買ったもの。つまり今まで一回しか懐中時計を買ったことがない。腕時計は小学生の頃に買ったことがあるだけだ。多分、それが壊れたのが高校生のときで(本当だろうか)、時計を買ってくれと親に頼んで買ったのが、この懐中時計だ。自分の小遣いはすべて本に消えてしまっていたので、時計など買う金は残っていなかったのである。確か、12000円だった。
高校生なんて莫迦だから、この懐中時計を見ると10人中9人は手に取って目の前でゆらゆら振り子のように揺り動かして「催眠術……」という。するとその10人のうちの1人は手を滑らせて床に落としてしまう。腕時計を床に落としても壊れないが、この懐中時計は床に落とすと壊れてしまう。同級生は簡単に壊れてしまう時計を最初は信じないが、本当に自分が壊したことを確信するとしぶしぶ修理代を払った。そりゃあ、壊したんだから払ってもらわなくてはこちらも困る。そんなわけで、3〜4人の高校生が修理代を払うことになった。一回、5000円くらいだったと思う。
その懐中時計を久しぶりに動かそうと思ったら、動かない。ちょっと動いてすぐに止まってしまう。この頃、携帯電話の表示で済ませていたのだった。今でも修理できるのだろうか。特に楽しい思い出があるわけでもないのだが、これは長く使い続けたいと思っている時計なのだ。
本を電子化しておくと便利なことがある。場所をとらないし、検索ができる。紙の本では全文検索は丸暗記していないかぎりできない。翻訳なんかをするときはこれが実に便利である。私は記憶力が弱いので本を見た後にモニタ上の辞書の画面に目を移すともう言葉を忘れてしまったりする。目の前に辞書、原文、訳文とウィンドウが並んでいれば何かと便利である。最初から電子版を入手できるものはそれを使えばいいのだが、なかったら自分で作ることになる。そのために私はダンセイニの貴重な本を一冊ばらばらに切り離したことがあるのだ。できればあんなことはしたくない。本を開いてスキャナー面に押し付けて読み取り、ページをめくってはそれを繰り返せば本をばらばらにする必要がないのは当然のことである。しかし、それでは時間がかかる。ぴったり押し付けて綺麗なスキャンを実行するのは意外に難しいのだ。それを繰り返していると時間はかかるし、腕は疲れるし、本は傷む。何かいい方法はないものか。
そこで見つけたのがこれ。
DIY Book Scanner Introduction and Motivation from Daniel Reetz on Vimeo.
ページ送りは手動だが、本の「のど」のところをスキャナにぐいぐい押し付けずに、一度に見開き二ページのスキャンができるのだ。すばらしい。しかし市販されているわけではなくて、この人が作ったのだ。自分で作るとおよそ300ドルだという。
世の中にはブックスキャナを自作する人たちがいて、その成果がDIY Book Scanningで報告されている。しかし、私には作れそうにない。
先日『清く正しい本棚の作り方』(Studio Tac Creative)[amazon.co.jp, bk1, 楽天, 紀伊國屋書店, Yahoo! Books]という本を買ったことは報告したとおりだが、実際にそれを私が実行するのは難しい。私に残されている時間はあまりないのだ(死ぬ訳ではなくて、引っ越しまでに何とかしなければならないから)。大金持ちなら、業者に作っておいてと云えばいいだけだが、残念ながら私には金もない。時間も金もなくては、壁一面本棚(扉付き)は無理だろう。でも、その無理を承知で何とかしたいのである。
『清く正しい本棚の作り方』では、余計なものが付いていると邪魔者扱いされている扉であるが、私は扉を付けたいのだ。日の光が当たらないようにしたいから。同時に部屋に日の光を存分に入れたいから。だが、高いのは扉なのだ。
TOSKA SQUAREというところがあって、ここのLB1000シリーズというのが、かなり自由に材料を組み合わせて棚が作れる。扉もある。二連セット、三連セットなどもあり、そういうのを組み合わせて、用意されているレイアウトシートに書き込んでみた。壁の大きさは、幅347 cm、高さ228 cmである。ところが、高さ204 cmのところに梁が出っ張っている。そこで、下は奥行き28 cmにして、上に追加する分を奥行き12 cmにしてみた。上に載せる側板は半分に切ってもらう。そういうことも註文できるのだ。部品を数えて計算してみるとおよそ30万円。扉さえなければ17万円である。困った。これは困った。扉はこんなふうに棚一つ一つにつけなければならないのか。そんなことはないはずだ。棚に付けるのではなく、部屋に付ける折戸を使ったら、もう少し安くならないか。さらに検討してみなければ。[続く]
蝋燭の炎の光で読む本の楽しみは格別であると書いてあった本が何だったのか思い出せない。ジェイムズ・P・ブレイロックだったか。誰もが書いていそうなことだから、探せばいろんな人が書いているような気もする。誰が書いたかはどうでもいいが、真夏の午後二時の直射日光で読むよりも、秋の黄昏の光とか、冬の蝋燭の光で読むと、エルフランドの光が本の中にきっと見えるに違いない。ただし、目にはあまりよくないような気もする(尤も、暗いところで本を読むと目に悪いというのは何の根拠もない言い伝えに過ぎないという話もこの頃はよく目にする)。
さて、私は目下、エルフランドの光が見えるかどうかということよりももっと現実的な問題に直面している。これから引っ越そうとしているマンションの壁面の照明は前の持ち主が全部持っていってしまったのだ。その人が取り付けたのなら、別に持っていってしまっても契約上は全然問題ない。天井の照明は、電球はほとんど切れてしまっているものの、概ね残ってゐる。
電球の切れた照明を暗くなっていく部屋で見つめていたとき、電球を取り付けてもあまり明るくない部屋のような気がしてきた。もちろん、明るければいいというものでもない。少し照明器具を買ったほうがいいだろうか。そう思ってカタログを眺めてみると、照明器具は意外に高い。特に壁面に取り付けるものは、高い。いろいろ出費の多く、照明を買う資金が足りない。どうしよう。暗闇で食事をするのか。書斎で食事をしなければならないのか。それでは新しい住まいに引っ越す意味がないのではないか。しかし、資金が湧いてくるわけでもない。
カーテンもない窓から暮れ行く黄昏の光を眺めていたときに、蝋燭の光で食事をすればいいのだと思いついた。何万円もする照明器具を買わなくてすむ。電気代もかからない(蝋燭代はかかるけど)。そうだ、蝋燭だ! 蝋燭の光はそんなに明るくないのは仕方がない。金がないのだから。
蝋燭の光を灯すには蝋燭と燭台が要る。いきなり食卓に蝋燭を立てるわけにはいかないから。燭台だ。そんなものを買ったことはなかったのだが、世の中便利になったもので、インターネットで検索すればいくらでも見つかるのだ。高級な銀の燭台なんかかって盗まれても不愉快だから(今どきそんな奴はいないか)、銀メッキか真鍮かそんなところだろう。あまり高く聳え立つのも恥ずかしいので、真鍮小物・雑貨のAlivioというところで、キャンドルホルダー3灯リリーを一つと、キャンドルホルダー1灯リリーを二つ註文してみた。蝋燭のことはよく判らなかったので、とりあえず一緒に5本買った。あとで気付いたのだが、5本では一度載せたら使い切ってしまう。50本くらい買っておけばよかった。
合計で約9千円。その金で安い照明器具を一つ買った方が良かったのではないかと思ってしまったのだが、いやいや、9千円で買える壁面照明器具は風呂の壁につけるようなものしかないからこれでいいのだ。
土曜日はリフォーム業者の人と二回目の打ち合わせ。見積書を受け取り茫然とする。削れそうなところを少し削って再度調整してもらう。来週は妻が福岡から来て、再調整の後に契約書を交わすことになる。これが改装工事だけだから、書棚と家具の費用は入っていないのである。本棚を買う金がなくなってしまう。一体何のために広い住まいに引っ越すのか……。
打ち合わせを終え、リフォームの会社の人が帰ろうとしているときに、このマンションの設計は梵寿綱なんですよと云ってみた。その名前は知らなかったようだけど、早稲田の「ドラード早稲田」や池袋の「ルポア斐醴祈」はよく知っていて、何度か訪れては中まで入って写真を撮ってきたことがあるという。「私もです」とか云ったのだが、そういえば私は中まで入れない憶病者だったのだ。嘘をついてしまった。いつか中まで入ってみよう。
打ち合わせは終わったが、先日「お父さんのチャーハン」を観ながら註文してしまったガスファンヒーターが届く予定なので待っていなければならない。電気のセラミックファンヒーターも今日届く頃合いで註文したつもりだったのだが、明日になりそうな気配。失敗した。
配達予定は午後2時から4時。今日は暖かくて暖房なんか要らない陽気である。
こんなふうに暖かい日差しの降り注ぐ部屋で待っていた(カーテンがないからという事情もあるのだけど)が、荷物は届かない。だんだん陽が落ちてきた。荷物は届かない。4時を過ぎても届かない。すっかり暗くなると寒くなった。ここには前の持ち主のエアコンが残っているのだが、二年くらい住んでいなかったらしく、エアコンのリモコンの電池が切れていて操作できないのだ。寒い。照明も、電球がほとんど切れていて、暗い。暗くて寒く、家具も何もない部屋でじっと待つ。寒すぎる! 身も心も寒くなってくる。
何とか動くリモコンを発見! 薄くて文字はほとんど読み取れないが、動き出した! これは1997年製の機種。ここでは最新の機種になる。製造年数が書いていない如何にも古そうなエアコンは交換する予定である。きっと動作効率が悪く電気代が大変なことになってしまいそうだから。しかし、何台もあるからいずれにしても家計が大変なことになってしまいそうである。
マンションの中で凍え死ぬことは免れたようだ。コートを着てこの部屋の隅にうずくまり、荷物を待つ。来ない。五時まで待って諦めて、忘年会に出かけたのだった。忘年会の最中に宅配便業者から時間内に配達できなくて申し訳なかったという電話がかかってきた。そこには住んでいないから、約束の時間以外は受け取れないことを説明し、来週の土曜日の午後に再配達を依頼。結局、電気のセラミックファンヒーターは夜の七時に配達があったらしく、不在通知がメールで送られてきた。これも来週土曜日に再配達を手配。来週土曜日は暖かい午後になりそうである。
日曜日は、リモコン用の電池と電球を買い込んで行こうと思ったのだが、土曜日に寒い部屋で待っていたせいか風邪が悪化してしまったので、外出は諦めて寝て過ごす。
私は電話が大嫌いである。電話が鳴っても五回に一回くらいしか出ないほど嫌いである。電話で話すと手は震え(いつも震えているけど)、背中には冷たい汗がどっと噴き出してくる。こちらの都合もお構いなしに突然鳴る。頭の中に電話の触手が捩じ込まれるような感じがする。こっちからかけるのはもっと不愉快である。どうしてもかけなければならないとなると、朝から気分が悪い。生きているのが嫌になってくる。もちろん、程度の喩えであって死んだりすることはないのだけど。
ところが、いくら嫌いだとは云ってもないと困る。電話がないと申し込めない手続き書類もあったりする。この頃は携帯電話の番号でいいところも増えてきたが、固定電話でなければ駄目なことも多かった。だから、新しい住まいには新しい電話が必要なのだ。
あればいい。使わなくてもいい。番号があって、電話がつながれば。だから、子機がいくつもあって家の中でどこでもすぐに電話を取れなくてもいい。隣の部屋で鳴って呼び出し音が聞こえなかったら運が悪かったと思ってもらうことにしよう。必要最低限の機能があればいいではないか。いや、機能なんてどうでもいい。使いたくないのだから。面白ければいいのだ。新居で使う電話機は機能を無視して選ぼうと心に決めた。
これだ、私が使う電話はこれにしよう。古いもの好きの私にはちょうどいい。 木製キャンドルスティック TELEPHONE【HT-05C】(上の画像)だ。値段も子機が二つくらい付いた高機能の電話機に比べれば決して高くはない。もう少しで註文するところだったが、考えてみれば私は一人で暮らす訳ではないのだ。妻や娘もいる。家の固定電話だから私だけが使うものではない。念のため、訊ねてみると、やはり使いにくそうだから、ちょっと嫌だと云われた。さらに慎重に検討した結果、これになったアンティーク磁器電話器(オリジナル堂ズバッと!目利き職人)。しかし、私は上の耳に当てるところと口元に当てる部分が分離しているものの方が良かったんじゃないかと密かに思っている。理由は、使いにくそうだから。両手で片方ずつ持ったらメモも取れそうにない。電話なんて使いにくい方がいいのだ。
そんなわけで、来年以降わが家に電話してもこの電話機がある部屋にいないと電話に出ない可能性が高いので、メールか携帯電話で連絡をとる方がいいと思います。
中島敦の「文字禍」という作品がある(青空文庫)。アッシリアの楔形文字で書かれた粘土板が保管された図書館の話で、そこの図書館長を任された男が、文字の霊を探し求めた末に霊を見いだしたものの、今度は言葉と文字の意味や音を見失ってしまう。最後に主人公は大地震による図書館と粘土板の崩壊の犠牲になり、文字の間に押しつぶされてしまうのだ。
素晴らしい。私もそんな一生を送りたいものだ。
さて、National Geographic Newsにアッシリアの粘土板の話が掲載されていた。今年の夏にトルコ南東部に位置する古代宮殿から発見された粘土板に書かれた楔形文字の文の内容が解読されつつあるというのだ。一体、何枚くらい発見されたのだろう。内容は日常的な国政に関する事柄だという。物語でもあればもっと面白いのに。
わが家にも楔形文字で埋まった粘土板があればいいのに。残念ながらまだ読んだり書いたりできないが、今、無性に楔形文字の勉強をしたくなってきた。楔形文字を使ったアッシリア語教室が近所にあればいいのだが。
TVCMで買う商品を決める奴がいるのかと云った直後に、「お父さんのチャーハン」を見ながら註文ボタンを押していた私だが、東京ガスから電話がかかってきて、ガス栓の交換工事は今度の土曜日はできないと云われてしまった(部屋のガス栓の形が古かったので、交換工事の依頼をしたのだった)。一日工事の予定が入ってしまって、もう入れる余地がないという。翌週の19日でいいかと云われる。どうしようもないので19日にせざるを得ないが、それまで暖房のない状態で過ごせということになる。
「予定が埋まっているなら仕方がありません。でも、19日までに凍えて死んでしまうかも知れません。工事に来て誰も出てこなかったら、凍え死んだと思ってください」
「……」
「いや、嘘です。そんなことはしません。電気のファンヒーターでも買うことにします。家族の反対を押し切ってガスファンヒーターにしたのに。だからガスには反対したんだと云われてしまいますよ」
「……」
「きっと娘もチャーハンが食べたいと云ってくれなくなると思います」
「チャーハンが駄目なら、山菜料理は如何でしょうか」
などという会話が交わされるはずはないが、東京ガスのTVCM「家族の絆・山菜の味篇」も素晴らしい。
再び号泣しながらオンラインショップの註文ボタンを連打しそうになる私であった。今回は、Panasonic セラミックファンヒーター DS-F1202-Cである。東京ガスとは関係ないのだけど、ガス栓の工事をしてくれないのだから、仕方がない。価格を比較してみると、Amazon.co.jpが妙に安いのでここにしよう。でも、ここは配達日が指定できないのだった。註文するのは金曜日にしなければなるまい。危うくまた号泣しながら連打してしまうところだったではないか。
でも白状すると実は山菜の味はよく判らない。
昨日の続きである。Webalizerによる解析結果では、どうも数値が高すぎるような気がしたわけである。httpdサーバapacheのログを読んで集計するから、検索サイトの情報収集ロボットの訪問やRSSリーダの更新のための読み込みなども数には入るだろうが、1時間1IPアドレスとか1年間1IPアドレスとか、重複集計を避けることは考えているから、そんなに的外れにはならないはずなのだが。
さて、Google Analyticsである。これは情報集計用のスクリプトを各HTMLファイルに埋め込み、それが読まれたことを集計プログラムに通知していく仕組みになっている。だから、スクリプトを埋め込まなかったページは読まれても集計されない。
直近一ヶ月の結果が表示されている。これを見ると、毎日200人くらいの人が見に来てくれていて、一ヶ月に5830の訪問があり、8788ページの閲覧があったことが判る。一回の訪問に平均1.51ページが読まれている。77.79の直帰率というのは、二枚目のページを見ることなくすぐに去ってしまう人のことで、検索サイトなどからやってきて、自分の求めている情報ではないなと思って去ってしまう人がどれくらいいるかの指標となると考えられている。尤も、日記の固定読者などになると、今日更新された記事だけ読んで行く人もいるだろうから、個人の日記サイトでは必ずしも「来る場所を間違えた人々」だけとも云えないだろう。
新規ユーザが約3割、二度目以上の人がおよそ7割である。「現在のセッションを含めたこのビジターのセッション数」が201回以上が19%もあるのだけど、これはどういうことだろう。グラフなどは示さないが、ブラウザの構成比はInternet Explorerが52%、Firefoxが29%、Safariが11%、Chromeが5%となっている。OSは、Windowsが75%、Macintoshが20%、Linuxが4%となっている。
どのページが読まれているかというと、読書日記のトップページ、新書新刊情報、オンライン書評情報、本欄トップページ、書籍関係ニュース収集ページの順になっている。これも、Webalizerによる集計とはちょっと違っていたりする。
二つの解析プログラムによる集計をみると、一日に200〜1000人の人が見に来てくれていて、そのうちの3〜5割の人が初めての訪問者で、一ヶ月に5800〜30000人の閲覧者がいて、8800〜160000ページが読まれたということが判る。幅がありすぎてさっぱり判らないが、多分Google analyticsの集計値の方が実態を反映しているのではないだろうか。一部、自動生成のRSSフィーダなどGoogle analyticsのスクリプトを埋め込んでいないものもあるので、そういうものの利用者数は漏れていると思うが、そんなに大きな数値ではないような気がする。もしかすると、自分で見落としている超人気ページが自分のサイトの中にあって、webalizerの集計値の方が正しかったりするのだろうか。そんなページがあるなら、ぜひ読んでみたいものだ。
自分が書いたものがどれくらい読まれているかはそれなりに気になるので、このサイトも含めてhttp://nakano.no-ip.org/全体のアクセス状況は解析ソフトで調べている。一つはwebalizer、もう一つはGoogle Analyticsである。
webalizerの解析結果をどう見るかは、たとえばWebalizerの見方というようなところを参考にすればだいたいのことはすぐに判る。設定方法などはここでは説明しないので、これから使いたい方は別のところで調べていただきたい。
まず月別の評価結果は上のとおり。4月にサーバ移転してからの結果が載っている。左の4カラムが1日あたりの平均値。毎日ほぼ1000人の人が見に来てくれて、5000ページが開かれている。一人5ページということになる。ちょっとこの数値は変だと思うのだ。一時間以内に何回連続して見に来ても、それは一回と数えるから検索サイトの情報収集ロボットがやってきた回数が多いからそれが直接数値に反映されていることはないのだが、たぶん、RSSリーダーが確認しに来ただけで、読者が読んだわけではないといった数値も入っていたりするのだろう。
月ごとの数値を見ると、毎月3万人くらいの人が読みに来てくれることになる。Sitesというのは一年間に1IPアドレスしか数えないので、初めての人がどれくらいいたかという指標になる数値である。これを見ると、月に6000人程度の人が初めて見に来てくれていることが判る。これがほぼ変わらず、あるいは徐々に減りながら、閲覧数が減らなければ(あるいは増えていけば)、初めて来てくれた人の何割かはときどき見に来るようにしてくれたということだ。
ここに示したのは日々の測定値。毎日450人程度の初めての閲覧者がやってきて、日々1000人ちょっとの人が読んでくれていることになる。
そんなにいる訳がないと思う。いくら何でも。そう思っていた頃(もうずいぶん前のことだが)、Google Analyticsが発表されたので早速試してみた。その報告はまた次回。
New Zealand Book Councilが作った本の魅力を伝える動画。本が切れるのを観るのは普通は不愉快なものだが、これはそうでもない。
最初に観たときはネットワーク環境が劣悪だったので、音声が途切れ途切れになってしまって何を云っているのかさっぱり判らなかった。今度、音声が途切れない環境で観てみよう。
この本のページが動き出す動画は素敵だが、だから、本は紙がいいというつもりも実はないのだ。
テレビは嫌いなので何年か前に調子が悪くなったのを機会に捨ててしまった。新しいのは買わなかった。なければないで平穏に過ごせるものである。あるとついくだらない番組を観てしまって、時間を無駄にしたと後悔するのだ。番組もくだらなくて騒がしいが、宣伝がまたくだらなくて騒がしい。いくら有名俳優を起用したからといって、そんなテレビCMを観て商品を註文する奴なんているのだろうか。いるとしたらよほどの莫迦だろうと思う。
今度の住まいでもテレビを置くつもりはない。が、家具が何もない部屋で一人うずくまっているのは寂しいものである。こんなとき人はテレビをつけるのだろうか。それでも、そんなものは要らない。しかし、それが冬ともなると、心の奥底まで寒さが染み込んでくるような気がしてくるのである。何か生きているのがつらくなってきて、何もかも嫌になって、このまま消えてしまいたいと思い、ふと気付くと鏡の向こう側の氷の世界に落ちてしまっていたりするのではないかと思えてくる。そうならないためにはどうしたらいいだろう。私は30分ほど真剣に悩み、有効な解決策を見出した。暖房機器を買おう。いや、こんなに勿体ぶって異世界の話まで持ち出さなくても、ガスファンヒーターを買ったと云えばいいのだけど。
真剣に機種の比較をすることもなく、35号ガスファンヒーター「Yo Ha Ku」 RN-B935FHに決めた。何だこの「Yo Ha Ku」というのは。本のページに余白があることは知っていたが、ガスファンヒーターに余白があるとは知らなかった。説明を読んだらガスファンヒーターの余白ではなく、部屋の余白だそうだ。このガスファンヒーターは部屋の余白となるそうだ。もし生まれ変われるのなら私は余白になりたいとかガスファンヒーターが云ったのだろう。【外形寸法】幅600×奥行170(228)×高さ463mm【本体重量】9.5kg【暖房能力】4.07〜0.76kw【暖房のめやす】木造11畳まで/コンクリート15畳まで、といった具合である。定価は58,590円である。セレクトインいとう電気というところで、送料・ガスコード一本を含めて25850円(税込み)で註文。支払いは銀行振込で、配達指定を土曜の午後にした。そんなことまで報告しなくていいとは思うが。
註文してから気付いたのだが、もっと安いところがいくつもあった。家電の安値屋本舗とか。ちなみにAmazon.co.jpでは、26800円。結構安いけれど、ガスコードはない。
東京ガスと云えば、TVCM「お父さんのチャーハン」は感動的である。
どれくらい感動的かというのはうまく説明できないが、これを観終えた瞬間、高校生の娘のいる私は号泣しながらオンラインショップの註文ボタンを連打していたくらいだといえば判りやすいだろうか。
vimを使っていて、●とか△を書くと、何だか変なことになってはいないだろうか。こんなふうに。
これは簡単に修正できるらしい。「set ambiwidth=double」という一行を.vimrcに書き入れればいいだけだ。
早速、Ubuntu 9.10で試してみると、重ならなくなった。しかし、MacOSXではどうも修正されないようなのだが、どういうことなのだろう。まあ、いいか。
ようやくマンション購入手続きが完了し、部屋に入れるようになった。築37年という古い四階建てのマンション。梵寿綱の設計である。
購入に至る過程を本欄で報告しようかと思ったが、あまりにも大変なのでやめた。
ガス、水道、電気を通してみると、レンジフード(換気扇)に外から鳥が巣を作っているようで、小石や小枝が大量に詰まっていてまったく使えない。さらに、ガス給湯器が壊れていて動かない。これらは、購入後一週間以内に異常を報告すると売り主が不具合を直す義務のある項目なので、急いで不動産屋を通して連絡をする。すぐに返事が来て、売り主が修理・交換の費用を負担することになった。内装工事後に住むので、そんなにすぐに確認できない。一週間の期限は今日だった。
さて、いろいろ内装や設備の工事をしてから住むのだが、まずは、広い部屋を仕切っている重々しい本棚を撤去することを決意。私は本を大量に所有しているから本棚は大好きなのだが、これはあまり気に入らない。この広い部屋は広く使いたいのだ。前に書いたが、長〜い食卓を置いてみたかったりする。
これを反対側から見るとこんな感じ。壁と一体化して(というか壁となって)綺麗に仕上がっている。でも、要らない。右側から見える向こうの壁まで通して使いたいのだ。
確かに立派な書棚である重厚でどっしりしている。重い本をたくさん置いても揺るがないだろう。しかし、重厚すぎる。部屋は明るく広く軽くしたいのだ。心が暗く重いからせめてへやくらいは。
これを壁面に移動して利用すればいいと思っていたのだが、壁際の天井はどこも梁があって一段低くなっているので、設置できない。切ったり分解したりして使うのなら、これを使う意味はないので、廃棄ということにする。ここにこんな書棚があったら本に直射日光が当たるのを避けるためにカーテンも開けられなくなってしまうではないか。私は日に焼けた本が嫌いなのだ。皆は平気なのだろうか。インテリア雑誌などを見ると、「見せる収納」とやらで日の光を浴びる本の姿を見せられることが多いのだ。あれは見ていてちょっとつらくなってくる。
さて、リフォームといえば水廻りと相場は決まっている。わが家でも浴室は新しいユニットバスを導入しようと考えた。TOTOのショールームにも通っていろいろ決めてきた。ところが、詳しく検証してみると設置できないという。壁と壁の間がどうしても少しだけ足りなかったのだ。とにかく浴室、トイレ、洗面所周辺の壁があまりにも堅牢にできているという。堅牢すぎてリフォームが難しいくらいに。梵寿綱だからなのか。浴槽を磨いて塗装し、床には新しいものを貼るということに。次の大型物件は台所である。システムキッチン導入である。
一見きれいだが、近寄ると汚い。蛇口は壊れていて、浄水器専用水栓を外した穴が開いていたりする。掃除して磨いて、食器洗い乾燥機とオーブンを組み込めないかと検討してみたけれど、背後の給水・排水までの空間に余裕がなくていろいろ難しいという。鳥の巣が詰められている換気扇もかなり無理して設置しているようで、構造的に問題があるともいう。結局、少し手前に出してシステムキッチンとレンジフードを安全に設置してみようという方向で検討することに決まる。
詳細が決まるまでまだまだかかりそう。さらに工事にも時間がかかるので、引っ越せるのはまだ先になる。
仮名漢字変換を突然発表して驚いたGoogleだが、今度はGoogle Public DNSだ。URLの名前変換をしてくれる。つまりアルファベットのURLと数字のIPアドレスの対応付けをしてくれるわけだ。普通はGoogleの助けがなくても解決できているわけだが(できていなかったらアクセスできない)、それならば必要ないじゃないかと思うのが普通だろう。Googleでは、ずっと速くなる! と云っている。それと、安全だ! とも云っている。安全性の向上についてはよく判らなかった。関心のある方はご自分で理解していただきたい。
さて、これを使うには、MacOSXの場合、システム環境設定のネットワークを開いて、DNSサーバの欄に、8.8.8.8 および 8.8.4.4を入れればいいだけである。簡単である。私は、自宅では何の不自由も感じていないのだが、勤務先ではどうも新しいURLへの接続に時間がかかるのが気になっていた。特に、この自分のサイトが遅いのだ。ここは、ときどき仕事で使うスクリプトを書くときに参考にしたりするのだけれども、妙にアクセスに手間取ることが多い。なかなかつながらないのだ。Google Public DNSを試しに使ってみると、接続時間の短縮効果は大きかった。素晴らしいではないか。
遅いと感じていない人にはまったく不要のものである。別にプロバイダーが要らなくなる訳ではないのだ。私のこのサイトにつながるのに最初が妙に待たされると不愉快な思いをしているから、ぜひ試していただきたい。私のこのサイトを読むときにもっと気持ちよく読めるようになるかも知れないから。
驚いたことに不意にGoogleから日本語入力システムが発表された。確かにGoogleは膨大な日本語の用例を持っているわけだから、うまいこと解析すれば仮名漢字変換に利用できることは容易に想像できる。早速、Google日本語入力betaをインストールしてみた(Mac版)。「ダウンロード」ボタンを押してから、ごく普通のアプリケーションと同様の方法でインストール。再起動せずに使えるようになった。キーボードはGoogle型の他に、ATOK風、ことえり風、MS-IME風などが選べるほか、カスタム設定もできる。単語登録、他のアプリケーションからの辞書の取り込みなど、一般的な日本語仮名漢字変換で必要な機能は一通り備わっている。
Webの用例から辞書ができているので、たとえば「歴史的假名遣ひ」などという語が一発で変換できる。しかし、一方、ハ行四段活用の設定などはないので、「いふ」で「云ふ」を出すようなことはできない。ハ行四段活用の単語登録ができたら私はこれを使ってもいいとすら思ったのだが、残念ながら乗り換えはできない。
しかし、一般的な現代仮名遣いの日本語を入力する人にとっては全く不自由しない機能を備えていると思う。それがまた無料なのだから、ATOKは大打撃ではないだろうか(私が心配することでもないのだけど)。私は日記は歴史的仮名遣いで書きたいという偏屈な人間なので「かわせみ」あるいは「ATOK」を使い続けるだろうが。
本のページを捲るロボットというと、人間のような姿の、たとえば美しい女性のような姿をしたロボットがそっと本のページを捲る様子が頭に浮かんだだろうが、残念ながらそうではない。それでも、本のページを機械が捲る様子には、何か新鮮な驚きを感じる。
Gizmodo Japanの記事で知ったもの。その記事ではあまり高い評価は得られていないようだったが、私は感動しました。ページ捲りロボットにそうお伝えください。
そのうち、ページを捲りながら朗読なんかしてくれたりするロボットが現れるかも知れない。いずれは、勝手に本を買ってきて、「面白そうな本が出ていたので買っておきました」などといって読んでくれるかも。でも、だんだん趣味が合わなくなって、
「もう村上春樹はやめてくれと云っただろう」
「あんなにお好きだったではありませんか」
「一体何年前のことを云っているんだ。『ノルウェイの森』以降はもう駄目なんだ」
「この『1Q84』の評判はなかなかいいようですよ。世界中で刊行されるやベストセラーになっています」
「ベストセラーは嫌いだ!」
などということになったらそれも怖い。